求めなければ得られないけど、求めれば求めるほど逃げてくのが幸福

前回、「幸福になる技術を、どう学んだか」という風に書いちゃったけど、「幸福」って、求めれば求めるほど、逃げていくものだと思います。

人は、どういう時に、自分が幸福だと確認できるのでしょうか?

主に二通りあると思います。

一つは、自分が設定した「幸福の基準」に照らし合わせて、それに合致してれば、自分が幸福だと思うことです。例えば、「お金に困らないぐらい経済的に豊か」だとか、あるいはもっと具体的に「年収〇〇万円」「貯金〇〇万円」とか、家を持ってるとか、素敵な恋人や伴侶がいるとか、家庭や友人に恵まれてるとか、欲しいモノが買えたとか、仕事で成功したとか、出世したとか、名誉を得たとか、有名になったとか、いろいろあるでしょうし、それらのものの複数、あるいは全部、ということもあるでしょう。

しかし、そのどの幸福も、求めれば簡単に得られるようなものではないし、それだけでなく、強く求めてしまうと逆に得にくくなる傾向もあります。例えば、お金を得るには、お金を得ようと思うことが必要ではありますが、お金が欲しいという思いが強過ぎると、仕事上の上司なり、お客さんなりは、「こいつはお金のためだけに仕事をしてるんだな」と感じて警戒してしまい、あまり信頼を得られず、仕事も順調にはいかず、結果としてお金が得られないことになるでしょう。欲しいものがお金ではなく、成功だとか名誉だとか有名になることであっても同様だし、恋人が欲しいとか結婚したいとかいう願望も同様でしょう。求めなければ得られないけど、思いが強過ぎても相手が引いてしまうというのは、誰しも経験することでしょう。さらに、願望が強ければ強いほど、それが実現した時に、それだけで満足できず、さらに大きな願望を抱いて、現状に不満を感じるようにもなるでしょう。

もう一つ、自分が幸福だと確認する方法は、そういう客観的(に見える)基準に基づくのではなく、自分の心の中をのぞいて、「幸福感」があるかどうかを見るという主観的な確認方法です。

しかし、こちらも、なかなか難しいことです。もちろん、誰しも「幸福感」を感じる瞬間は数多くあるでしょう。しかし、そんな幸福感が長続きしないことも、数多く経験済みだと思います。あまりに強く幸福を求めると、絶えず、自分の幸福感をチェックし、かつては感じた幸福感が薄れ、あるいは失われたことに失望し、そのことで逆に喪失感や不幸感さえ感じてしまうこともあります。

「私は、これさえやってれば幸せなんだ~」「私は、これさえ食べてれば幸せなんだ~」「私は、この音楽さえ聴いてれば幸せなんだ~」。そこで留めておけば良いものの、その幸せを確認しようと、自分の心を観察してしまったらオシマイです。「あれ?昔は、この音楽さえ聴いてれば幸せだと思ったのに、イマイチだな~」と、自分の“幸せの方程式”を疑い始めたり、「いや、自分は今、幸せなんだ!」と思い込もうとして、そればかりに気を取られたり。つまりは、得られた幸福感を確認しようとしたり、手放すまいとしたり、かつての幸福感を再び得ようとしたりと、幸福に固執すればするほど、実際のところ、幸福からはどんどん遠ざかるばかりです。

この二つのどちらに幸福の基準を設定しても、その幸福を強く求めれば求めるほど、幸福は逃げていく傾向があると思います。また、自分が求める幸福が一瞬得られとしても、それを確認しようとすればするほど、逃げていく傾向もあります。

なぜなのでしょう?それは、どちらも幸福の基準が、自分の中にしかない「私欲」に基づくものだからです。「お金持ちになりたい」も「幸福感を得たい」も、私欲に過ぎないのです。そして、私欲である限りは、誰からも本心で支持されたり、共感されたりすることもなく、孤立して、自分だけが頼りで、うつろいやすく、不安定で、はかないものとならざるをえないのだと思います。

なので、自分だけ「絶対に幸福になりたい」ではなく、自分のまわりを「ちょっとだけハッピーにしよう」というぐらいに留めておくのが、このブログの最初に書いた「ちょっとハッピーになる技術」の一つであり、その目標でもあるのです。

そういう意味でも、あまり大きな期待は禁物です。

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