「不運から逃れる方法」は、幸せを呼び込む

昨日まで3回シリーズで「不運から逃れる方法」を書きましたが、それを要約すると、最初に書いたように、「どんなことが起きても『不運』と思わなければ良い」ということです。

その1では、「幸運」や「不運」は、人間には簡単にはわからないので、どんな出来事も、それに直面した時の「喜び」や「悲しみ」の一時的な感情に囚われず、長い目、広い目で見て、「不運」を感じなければ良いということでした。

その2では、「不運」か「仕方ない」か「当たり前」かに本質的な違いはなく、確率の大小が違うだけなので、勝手に「不運」と「仕方ない」と「当たり前」の間にボーダーラインを引いて、悲しんだり、諦めたり、当然と思ったりと、感情を動かさなくて良いということでした。

どちらも、「不運」という概念は、個人の主観による狭い目で見た印象に過ぎず、実体がないものなので、それによって一喜一憂するのはバカらしいということを示しています。

「0%悪いことが起きないこと」や「100%普通のことが起きること」が「当たり前」だと思い込んでアテにしてたのが、非常に低い確率だけど現実に起こりうることが起きると、「不運だ!」と嘆き、勝手に失望したり、悲しんだり、落ち込んだり、下手すると、他人に当たったり、人間関係を壊したり、散財したり、食事ものどを通らなくなったり、鬱になったり、アルコールや薬物の中毒や依存症になったり、ついには自らの命まで断とうとする。そういうところまでに至ることは、非常にバカらしいことであって、「不運」という実体のない印象が、現実の実害となってくるのです。

奇数の目が出るとハズレとなる確率50%のゲームに負けたり、99.999995%ハズレる宝くじにハズレて、上記のような自暴自棄になって、自分や他人を害するのは、バカらしいと思いませんか?それと同様に、0.001%の悪いことが起きたとしても、自暴自棄になって、自分や他人を害することも、バカらしいことなのです。

どんなに確率が低いことであっても、起きてしまえば「偶然」ではなく「現実」です。それを認めず、過去の「不運」を呪う感情のとりこになって、自分や他人を大きく損ねる方向に行ってしまえば、さらに次の瞬間の「現実」を、どんどん悪いものにしてしまいます。

だから、「どんなことが起きても『不運』と思わない」ようにする「不運から逃れる方法」は、悪い出来事の悪影響を最小限に留め、心を切り替えて冷静になり、今、打てる手を打って、目の前の現実を少しでもベターなものにしていくために、必要なことなのです。

最初にお話した「人間万事塞翁が馬」の老人は、大切にしていた馬が逃げても、息子が落馬して骨折しても、それを「不運」と思わず冷静でした。もし、老人が、それらの悪い出来事に大きなショックを受け、感情を乱して自暴自棄になり、酒に溺れ、周りに暴力をふるい、自分も他人も害していたのならば、その後の「幸運」も「幸福」も得られなかったでしょう。

どんなことが起きても『不運』と思わない「不運から逃れる方法」は、幸せを呼び込む方法でもあるのです。

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