不運はなくせる(後篇)

(昨日のつづき)

すなわち、旅人がAに向かう道を進んだのは「必然」と「偶然」の合作です。しかし、旅人が重ねた無数の選択による「必然」の方は見えずに、旅人の悲劇的結末と「分岐路」という分かりやすく目に見える選択肢だけに目が行ってしまい、「偶然」の方だけを強く感じ、そして「不運」を感じるのです。

ところで、サイコロを振って奇数の目が出たのは、完全に「偶然」でしょうか?もしかしたら、旅人にサイコロを持たせて、迷ったらサイコロを降るように提案しつつ、サイコロを陰からコントロールできるように細工をした人がいたとしたら、「必然」となってしまいます。いや、そんな細工をしなくても、旅人のサイコロの握り方や振り方と、サイコロが転がる地面の形などから、サイコロの目が奇数となるか偶数となるかを予測できるコンピュータがあったら、もはや奇数の目が出るのは「必然」だと分かったのかもしれません。

旅人が、D~Gや、その他無数にある選択肢をどんどん消していったのは、完全に「必然」でしょうか?旅人が、それらの選択肢を選ばず、AかBの町に早く行きたいと思ったのは、たまたま、AやBの町の方角を見た時に、さわやかな風が吹いた「偶然」が影響したかもしれません。

旅人の前には、AかBに向かう道しかないんだから、AかBかを選ぶのは「必然」。Aを選んだのは、どちらの目が出るか分からないサイコロの目に託したんだから「偶然」。そう思い込んでたに過ぎず、実は、どちらも「必然」と「偶然」の合作だったかもしれないのです。

ただ、その選択肢を選んだ時の意志や状況といった原因とその結果との関係や過程が、「わかってる」「見えてる」と思い込んでれば、それが「必然」に見え、「わからない」「見えない」と思えば、それが「偶然」に見える。それだけのこと、なのではないでしょうか。

モノゴトが、「偶然」に見えるのは、たまたま自分にとって、原因と結果の関係が見えてないだけで、世界にとっては、「必然」も「偶然」もない。そして、「偶然」と思うからこそ感じる「幸運」や「不運」も、原因と結果の関係が見えてないからこそ、そう感じるだけで、世界には「幸運」も「不運」もないのです。

タイトルは、「不運をなくせる」としてしまいましたが、実は、「幸運」も「不運」も、もともと、この世界には、存在しないものだったのです。「不運」を嘆くのは、やめましょう。そんなものは、元々ないんだから。